共病という言葉を選んだ理由

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「闘病」という言葉が、健康だった頃から好きではなかった。

病気になる前から、そう感じていた。
なぜ、病気と「戦わ」なければならないのか、と。


テレビの「闘病」番組を見て、思ったこと

テレビには、闘病を題材にした番組がよくある。
でもその多くは、本人が望んだ結果にはなっていない。
懸命に戦って、それでも亡くなる。そういう結末を何度も見た。

「余命」という言葉も同じだと感じていた。
死ぬ気まんまんに聞こえた。
その言葉を受け取った人が、本当にそうなっていくように見えた。

言葉が、人の立ち方を決めてしまうのではないか、と思い始めていた。


傷病には、三択しかない

自分が傷病と付き合うようになってから、あることに気づいた。

傷病の行方は、三つしかない。
治るか、現状維持か、悪化するか。
それだけだ。

治らないものは、どれだけ戦っても治らない。
それならば、悲観になるより、上手く付き合った方が楽だ、と考えるようになった。

戦うのをやめた瞬間、少し息がしやすくなった。


言葉が変わると、吐く言葉も変わった

「共に生きる」という発想に切り替えてから、
口から出てくる言葉が変わっていった。

「なんでこうなったんだ」より、「今日はここまでできた」。
「治らないのか」より、「今日はこれで十分」。

建設的で前向きな言葉が、自然に出てくるようになった。
言葉が変わると、態度が変わる。態度が変わると、体との付き合い方も変わった。

マグカップからゆっくりと湯気が立ちのぼる、落ち着いた温かみのあるイメージ

「闘病」する人は、病院とも戦っている

わたしが観察してきた限りでは、「闘病」という言葉を使う人には、
ある傾向があるように見える。

病院や医師とも、戦っているように見える、ということだ。

「なぜ治してくれないのか」「この治療は正しいのか」「もっと良い病院があるはずだ」。
その姿勢が、医師との関係をこじらせていく。

でも、病院や医師は、敵ではない。
同志であり、助けだ。
お互いが協調し、尊重しあえる関係の中でこそ、良い治療は生まれる。

そのことを、わたしは身をもって感じてきた。


だから「共病」を選んだ

戦わない。でも、諦めてもいない。
ただ、一緒にいる。今日も、傷病と共にある。

「共病」という言葉は辞書にない。
だからこそ、誰かの定義に縛られない。
わたしにとっての意味を、わたしが決められる。

そういう言葉が、ずっと必要だった。それが「共病」です。

共病という生き方の全体像は、共病をAIに頼って、今日を生き延びた記録。にまとめています。