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2002年の夏、私は知らないまま死にかけていた。
腰に激痛が走り、足に力が入らなくなった。仕事を優先しようとする私を、小中高校の大先輩でもある整骨院の先生が説得してくれた。「だまされたと思って医療センターに行ってみて」。妻の運転で受診したその日、そのまま緊急入院になった。
入院中、私は元気だった。病棟の廊下を歩き回り、こっそり会社にも顔を出した。「大げさな入院だったな」くらいに思っていた。
退院後、妻から聞かされた。「あのとき先生から、余命2週間と言われていた」と。
知らなかったから、怖くなかった
余命を告げられていたのは、妻だけだった。当時の日本の医療現場では、予後が厳しい場合、本人ではなく家族にだけ伝える慣習があった。私は何も知らないまま、病棟を歩き回り、仕事のことを考えていた。
知らなかったから怖くなかった。知らなかったから動けた。知らなかったから、「今回も乗り越える」という根拠のない確信を持ち続けられた。
その後、2度目の余命宣告があった。3度目もあった。命の瀬戸際を、私は3回くぐり抜けた。
「治った」は錯覚だった
退院後、1年以上通院した。医師からこう言われた。「血管全体が動脈硬化で詰まっている。交換するとかどうにかできるものじゃない」。
それでも私は「治る気」でいた。2004年に冠攣縮性狭心症と非アルコール性脂肪性肝炎が加わっても、「今度こそ完治する」と思っていた。
最近になって知った。2002年の大動脈解離と、現在も通院中の冠攣縮性狭心症は、根が同じだ。高血圧、重度の動脈硬化、生活習慣病。一本の線でつながっていた。「治った」と思っていたのは、慢性期に移行しただけだった。
24年間、病気は消えていなかった。形を変えながら、ずっと一緒にいた。

整骨院の先生の言葉がなければ
あの日、私が「仕事を優先する」という判断を押し通していたら、今はなかったかもしれない。先輩でもある整骨院の先生が「同じ症状で亡くなった患者さんがいた」と教えてくれたから、重い腰を上げた。
人の言葉が、命をつないだ。
24年間の通院記録を一冊にまとめた本があります。2002年の入院から、共病という考え方にたどり着くまでの話を書いています。
『12の傷病と耳の難病、24年目の通院記録【共存篇】』(Amazon)
Kindle Unlimitedに加入されている方は、追加料金なしでお読みいただけます。
共病という生き方の全体像は、共病とは何か|12の傷病と24年の通院記録から考える生き方にまとめています。
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